今日のニショーバ向け連絡事項

※註:読みにくいです。

90年代的「ゲームキャラクター」幻想論。
まだ精読していないので何とも言えないが

http://d.hatena.ne.jp/bluestars/20060607#1149674114

 どうなんざんしょ。
 どこら辺までミクロに分析するかで、有用性の有無は分かれるかと。一番カメラを引いてしまって、
「矛盾が存在することで葛藤が生じ、それがより高次の存在に止揚されて解決する」
 という文脈まで還元してしまえば何一つ新しい「構造」などは存在せず、つまりは「天が下に新しきもの何もなし」になってしまうだけで。つまりは葛藤のパーツとか止揚の結果とかが多少違うだけで、データベース型言語の狭い枠内でぐるぐるメタが回った気がしているだけなのかも、とかそういう話ですな。

 わし的には90年代以降の主人公無個性化の原因を女性のプレイヤーの増加に求めるよりは、子供社会における同化圧力の強化(はみ出し者になることへの恐怖の増加)とか分かりやすい物語の衰退とか、そっち方面の文脈から回る方がリーズナブルな気がするです。嘘ですが。でもプロジェクトとしてのメル(メルヘブン)と展開のコントロールの方法は、少し考慮に入れておくべきかもしれません。
 本当は「フラットな共感」とか言っても、共感すなわち「感情移入」は紀元前からの物語の最重要パーツでやんすから、とりたてて云々するのであればもう少し道具が必要な気がするです。

 リアリティとかパラメーターと外見の相違はまだ世界にD&Dぐらいしかない時代からもめてた項目なんで、FFの影響云々とかいわれても我々は20年前に通過したとかしか返せないでやんす。

 内なる暴力性との対峙はヴェトナム以降のアメリカに顕著に見いだされるようになった悩めるヒーローって奴とさしたる違いはなく、そこに日本の特殊事情を過度に見い出すと逆に危険というか。そもそも対立こそがドラマを生むというのが紀元前から変わらぬ真理で。もちろん、日本製の物語においてのみ内なる破壊衝動が、葛藤の相手役に選ばれる傾向が過度に高いというのであれば、そこには「日本の特殊事情」と分析するべき事柄が含まれているかもしれませぬ。あるいはそれが世界的な傾向であっても、グローバリゼーションの進展する脱工業化社会における共通の課題として分析の俎上に乗せること自体は有用と思うのです。
 ここでもカメラを引いてしまうと、人間の関係性(いや義理と人情とか言い換えてもいいですが)からの愛憎をドラマの主軸としていたギリシャ悲劇の時代から、世界はさして変わってないとも。トロイア戦争とか、個人的な駆け落ちが破滅的大戦争に発展してしまったりとかですし。

 80年代における冷戦の継続と社会的マッチョは一致する気がしますが。本当はガンダム以降のリアル指向の中身の分析は必要不可欠なんで、そこまで攻め込むと話がばらけすぎるかも。
 あとセカイ系は本当にエンタテインメントとして成立しているのかそれとも明治期の文学をありがたがる傾向のようなものと解するべきかとかそういうのも対峙すべきテーマかもしれません(同じじゃんと片づけてしまうべきかもしれません)。

 まああんまり要約しすぎるとエイダス・フォースが祖皇フォーカスライトに時代が変わってないとか言ってしまって終わる気がするのでほどほどにミクロな分析活動も必要だと思いますが。