「 ■ 回転ドアでの事故死の件」

http://d.hatena.ne.jp/cdc/20040329#p2

 「子供は何をするのか分からない」 これは昔からそうだし今もそう。 だから「世の中からいかなる全ての危険を取り除きましょう」、ではなく「保護者が、世の中の危険から子供を保護しましょう」と考える方がまともだと思うし、少なくとも十数年前の保護者達はそういう考え方を持ってた筈なんだがね。

 上記の内容それ自体にはまったく異論はない。で、まあ微妙にテクニカルな話とか。

 事故の夜にニュース見ながら父親とした会話の要約とかから始めてみる。
 父親はわりと機械技術職な人間。で、工場とかで使う機械で「自動的に動作して、人間がそれにあわせて動く必要がある。動くタイミングを人間が間違えると事故になる可能性がある。危険なことが起きたら非常停止が働く」ってのがあったら、設計思想的にはかなりダウトというかぶっちゃけありえないそうな。
 要するに、「人間が機械に合わせて動く」ってのは個人固有のタイミングというかリズムというかを変えなくちゃならないんで、凄い勢いで失敗率が上昇するんだと。「一つのことをずっと続ける」とか「動くタイミングを自分で決められる」とはまるで違う、と。まあ考えてみれば、たかが歩くという動作でさえ自分のリズムでできないってだけで「二人三脚」や「ムカデ競争」になってしまうわけだから、当然かも。
 で、危険防止にしても、まあ非常停止は当然付けるにしても、今は「安全が確保されてない限り作動しない」方でやるのがメインだと。要するに「ドアが閉まらない限り電車は発車しない」ってことでんな。
 そういうわけで、動力を使った自動式回転ドアは、事故が起きないほうが不思議なぐらいな発想なんだと。

 前置き終了。まあ動力式の回転ドアが危険だ、というのはまあ事実でいいでしょう。現に人が死んでるし。
 でも、今回の事件の前からそれが「世の中の危険」の一つだって分かっていた人はどのぐらいいたんだろうか?
 少なくとも自分は親から「自動回転ドアが危険だ」という教育は受けていない(自分の年齢的にはそれは当然だけど)。一回自分もプロツアーだかグランプリだかで遠征中に、あそこまで大型のものではないけど、自動回転ドアを使ってかなり気持ち悪かった(怖かった、まではいかなかったが)ことはあった。何かのときにその話を親にしたら「ああいうのは危ない」とかなんとか、上の前置きの話の一部はそのときに出ていた。
 でもまあ、そういうのって誰でも分かるようなこととは言いがたい。自動車だの刃物だの踏切だのが危ないってのは、まあ、誰でも知っている(ことを期待されるようなレベルの)情報ではある。自動回転ドアはそうではなかった。
 「車が行き交う交差点で反対側の歩道に母親の姿を見つけた子供が飛び出して車に当たった」という事件とはその点で性格が異なる。六本木ヒルズの利用者にしても「車は急には止まれない」は知っていても、「自動回転ドアの制動距離は○○だから非常停止が作動しても動きつづける」なんてのまで知っていたとは思えない。(考えれば理解できることだとは思うが)
 たぶん、今から一週間前の時点では「自動回転ドアは危険だから動いている場合は絶対に近づかないように子供によく言って聞かせている」ってのは、「自動車は危険だから動いている場合は絶対に近づかないように子供によく言って聞かせている」とか「知らない人についていくのはやめましょう」の側よりは、「CIAに支配されているマスコミの情報は危険だから(略)」とか「HIV感染者からの汗は(略)」とか「火星から送信されている命令電波は(略)」とかの方に近いような位置だった思う*1
 ものすごい無意味な考えだけど、例えば六本木ヒルズの入口に回転ドアじゃなくて「踏切と線路」があって事故が起きたんだったら、そりゃ「親が目を離したのが原因で事故が起きた」でも、そんなに疑問には思わないと思う。同時に「なんでそんなところを電車が走ってるねん。設計おかしくねえ?」とも思うだろうけど。

 「(回転ドアの危険性について)知らないのが当然」とか「危険が予見できないのが当然」とまで主張できるかどうかは知らない*2が、少なくとも、たかがデパートのエスカレーターでさえ「必ず、手すりをお持ちください」とかなんとかアナウンスしている国で、利用者に特段の注意を促さずに自動回転ドアをのさばらせていたとすれば、それはやっぱりどうかと思う。

*1:妥当か否かってのじゃなくて人口に膾炙している度合で

*2:今後裁判で争点になりそうな気もしないでもない